子供の頃の体験 縄文土器 [雑感]
子供の頃の体験 縄文土器
半世紀以上にもなるあまりに昔のことで、記憶も薄れ、現実と想像との境界も曖昧になってきた。
おいらが、加曽利貝塚に行った折に見かけた土器を作る集団を見かけた時に、心を惹きつけられたのは、この当時の体験が大きな要因になっていると思っているんだろうと疑わない。
小学校の高学年になった頃だろうか、その頃は地元の小学校ではなくて、越境編入して3年生から電車通学していたので、いわゆる地元の幼友達っていうのも少なかったと思う、と言っても下校してからの遊び場は地元の大泉学園(西武池袋線)の周辺になる。
休みの日はちょっと遠出して自転車を駆って白子川。
急な坂を転がり降りると、白子川にかかる橋があって、そこから下流に土手沿いに行くと、右側に東映大泉撮影所が見えてくる。
さらにちょっと行くと丘があって雑木林があった。
この雑木林は豊かな自然の富をおいら達に惜しむことなく与えてくれた。
時には自然の恵みでない畑のサツマイモなどもちょっと失敬して生でかじったりした。
春の記憶はないが、夏はカブトムシ、クワガタ、セミなどを両手て持てないほど採れた。秋は山栗などをとって渋皮をとって生で頬張ったっけ。
冬は、爆弾が落ちたと言われるすり鉢状の南斜面に寝転がると、背中の砂が暖かい、そんな心癒される空間もあった。
こんな「子供の楽園」も幼友達を中心に代々情報伝承されたきたんだろう。
しかし、伝承もおいらの世代を最後に次の世代に伝える必要がなくなった。
宅地開発が入ってたくさんの宅地ができた。
話を戻して、その「子供の楽園」からさらに土手沿いを下流に進んだところに、縄文土器や石器、矢じりが取れる畑があった。
もちろん畑で栽培されたもんではないですよ。
いつの日にか、先の「子供の楽園」より、土器の方に興味が移った。
川の土手から坂を駆け上がると木立に囲まれた薄暗い小さな道があり、
片側が白子川に面する小さな崖、もう一方は畑との境界線に生垣があった。
生垣の根元の小さな子供専用の通路を抜けると畑。
農作物が植えてある記憶はない。ウネの柔らかな土を手で掘ると、時に手に塊の感触を返してくる。(のちに不思議に感じたのは、シャベルなどの道具を用いることなく、本当に簡単に遺物を手に入れることができた。現在はそうして掘り出した遺物がないので、記憶の誤りではないのかって疑って見たこともあった)
取り出してみると縄文土器の破片、ときに石器、ときに黒曜石の矢じりを手に入れることができた。
おいらは土器のかけらより、原型を崩さない石器や矢じりが好きだった。
さらに記憶が雲の中のようになってしまうが、採掘している大人もいたようだった。
その方に会った記憶は定かでないが、掘り出した小さな土器の破片を組み合わせて修復していたようで、たくさんのコレクションを持っていたようだ。
こんなテクニックも知識もないおいらが気に入ったものを、いままさにこの小さな手にしてみていると、この地が縄文の遺跡として往時の「縄文人」が確実に色々な思いを込めながら形を作った、これが誰かは知る由もないが、確実にそんな人々とのつながりを感じ取れた。
昭和を生きている人よりもより濃厚に人とのつながりを感じた。
ましてや普及しつつあったテレビという箱の中の人物などとは確実にそのエネルギーが違っていた。
そんなヘンテコな感覚がその頃できたのかもしれない。
この場所は現在は病院の敷地になって入ることはできないし、掘り返すこともできない。
最近になって、こんな不思議なことって騙されたか、自分で想像したものじゃないのかって思って、調べてみるとちゃんと遺跡として存在していた。
練馬区のサイトで白子川流域の遺跡で「八ケ谷戸(やっがやと)遺跡」という記載があった。
そんなパワーを生成している遺物もいつのまにかなくなってしまった。
あの時の手元に置く、手にしてみた時の感覚をもう味わうことができないのか。
そんな不鮮明が欲求をずっと感じていたところ、冒頭の加曽利貝塚で土器づくりの集団を見た。
本物の遺物を手にしなくても、自分でその気持ちを味わいながら作ってもいいんじゃないのか。
今は少しでも縄文人の創造的心理を湧き起こすように努めている。
これはこれで難しい。
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タグ:加曽利貝塚
おはようございます^^
子供時代に掘り起こされたものが現存していると記憶は鮮明なんでしょうけれどね。捨ててしまわれたのでしょうか・・・
by mimimomo (2016-09-30 07:35)
mimimomo さま
いつも有難うございます。
手元に現物を見ながら記事を書くことができれば、もう少し具体的になるんでしょうが、微塵もありません。
一部は学校へ持って行って友達にあげました。
一部は庭に放置してあったり、机の引き出しにも入れたんでしょうか。
第三者から見たら、ゴミにしか見えないので、捨てられたんだと思います。
by DANKAI_Gen (2016-09-30 16:32)
大泉学園近くがふるさとでしたか。ここには田川水泡の「のらくろ」と同時代の漫画「冒険ダン吉」を描いた嶌田啓三氏が住んでいましたね。ぼくはその娘さんと職場の同期でした。会社のマドンナでしたが、僕には高根の花でした。
by 暁烏 英(あけがらす ひで) (2016-10-01 21:28)
暁烏 英(あけがらす ひで) さま
いつも有難うございます。
知りませんでした。「冒険ダン吉」はそのタイトルに聞き覚えがあるので、観ていたのかもしれません。
大泉学園駅の隣の石神井公園駅やその先の富士見台駅あたりに漫画家の先生方がいらっしゃったのは聞いたことがあります。
いいですね。職場のマドンナで高根の花の娘さん。
by DANKAI_Gen (2016-10-01 22:48)