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ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA その1 [歴史散歩]





ペリーが歩いた横浜_桜木町駅-01.jpg


ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA  主催:NPO法人神奈川歴遊クラブ

 

   友人から彼の知人が所属するNPO法人が主催する歴史散歩の会があると紹介された。

興味があったのと、ここ最近の天候不順で主に散歩でしか運動というものをしなかったことで、明らかな運動不足であるだろうとの反省から、友人からのありがたい紹介を受けて出かけることにして申し込んだ。

もちろん、紹介された友人共々。

 

ペリーの名はもちろん知ってはいたが、その名で思い出す地は下田かな。

下田は日米和親条約によって開港した五港の一つで、日米和親条約が締結された地が横浜だということがわかった。

 

 

西欧列強は産業革命によって大量生産の手段を得たことで、素材を得て、加工品を輸出する交易を求めて、東アジアに進出しようとした。

当時の日本は海外との交易を禁止する鎖国政策をとっていたため、また英国の清国の植民地化などを見聞きしていることから容易に開国することはできなかった。

ヨーロッパの列強に比べると米国は大国ではあったが、戦火の実績もなく交渉しやすいと判断されたようだ。

 

 

それで、1854(嘉永7)年3月、4回の会談を経て日米和親条約が締結された。

この地が実に横浜だったのだ。

 

 

<条約締結後の4月6日、つかの間の休日を得て、ペリーは12名の部下とともに横浜村周辺を散策。

最後に訪れた名主の石川徳右衛門宅では家族の温かい接待を受け、村人とも交流して帰船しました。

4日後、品川沖まで船を進め、江戸の町を遠望。

4月18日、条約で開港されることになった下田と箱館を視察するために江戸湾を後にしました。

 

ペリーは日本人との交流を通して、当初は文明社会と半野蛮人との交渉と考え、軍事力を背景にした交渉をしましたが、次第に日本は将来、技術的な分野では先進諸国のライバルになるだろうと予言するようになったという。>

(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料より抜粋)

 

 

 

この1854年4月6日の休日のペリーの足跡を辿るという。

 

JR根岸線・京浜東北線 根岸駅9:30集合

この秋は天候不順で雨の心配をしていたが、午前中はどんよりした重い雲に覆われていたが、いつしか青空に変わって、夏に逆戻りしたような暑い日となった。

 

多数の参加希望者がいて、何班かに分かれてコースをめぐる。

 

横浜は観光地としても人気のスポットだが、歴史的なスポットも数多くあって、それぞれに楽しめる大変よい場所だと再認識した。

 

コース

1)日米和親条約締結地

2)海辺通り(元浜町通り)

3)洲干弁天社(神奈川県立歴史博物館付近)

4)太田屋新田(太田屋通り)

5)横浜新田(中華街)

6)元町公園・貝殻坂

7)東漸寺跡(北方小学校)

8)麒麟麦酒開源記念碑

9)横浜外国人墓地

10)外国人墓地22区(海兵隊員ウィリアムズの埋葬地辺り)

11)増徳院跡

12)石川徳右衛門居宅(代官屋敷)

 

コースの順は各班との兼ね合いから1)から順番とはなっていなかった。

実際に巡った順番に何回かに分けて記事にしていきます。

 

今回はこれで終わり、次回以降に続きます。

 

 

 

   



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どんよりとした蒸し暑い天気
ランドマークタワーの上階は霞んで見える

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駅前広場の案内地図を見ながら今日のコースを確認して
さぁ出発だ
 
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2)海辺通り(元浜町通り)
 

2)海辺(かいへん)通り
横浜開港当初の五筋の一つ。元浜町のいくは、かつては海辺通りと呼ばれ回胃がんに面した道路であった。
1870(明治4)年に埋め立てにより、現在の海岸通りが新設されたので、以降は元浜町に改称された。

(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料を転載)



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この地は明治期から開運の盛んな地となった
歴史を感じさせる日本郵船歴史資料館の前を抜けていく
 
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外観はホテルのようだが、横浜税関
 
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同じ横浜税関 正面からは塔がミアなかったが、
横から見ると立派な塔が
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横浜税関のはす向かいにある横浜県庁本庁舎にも塔が
横浜市開港記念会館にある塔を含め「横浜三塔」との呼称が付いているという
 
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道路に埋め込まれた「横浜三塔」のレリーフ案内板
 
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1)日米和親条約締結地
当時は大きな砂地でペリーは先進国の威厳を示すための文明の利器を持ち込んで
デモするためにこの地が最適だと判断したという
蒸気車の縮小モデルなどもここで走らせたという
 
黒い煙を吐きながら航行する黒船だけでも驚いたに違いないが、
蒸気車なんて見たこともないものが、目の前を音と煙を吐いて走る姿を見て
どのような印象を持ったのか、聞いて見たいな
 
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奥に見えるのが山下臨港線プロムナード
 
ペリー提督横浜上陸-12-2.jpg
当時の様子を絵にしたもの
右にあるのが、神社でそびえているのが「玉楠の木」(タブノキ)
関東大震災で幹を焼失したが現在も横浜開港資料館にある


1)日米和親条約締結地
ペリーが横浜を交渉地としたのは、江戸に近く、安全で便利、陸地が広いことなどから。
5棟の応接所(米国側は条約館)は4日間で完成。
1854(嘉永7)年3月8日を初回に4回の会談後、31日に調印した。
幕府は人道的な取り扱い(石炭・薪・水・食糧の補給、避難港の開港、避難民の救助)は認めたが、通称に関しては認めず、代わりに総領事を置くこととなった。
最大の問題であった開港地は、箱館と下田で妥結。
長い間続けてきた鎖国政策は崩れ、日本は新しい時代を迎えることとなった。
また、交渉の過程では種々の贈答品のやり取りがあり、特にアメリカの蒸気車と電信機は日本人に大きな驚きを与えた。

(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料を転載)





 


 





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コメント 2

mimimomo

おはようございます^^
いろんな催し物がありますね~横浜も歴史がある町、あまり意識したことなかったです。
by mimimomo (2016-10-11 07:53) 

DANKAI_Gen

mimimomo さま
おはようございます。
だいぶ涼しくなって過ごしやすくなりました。

横浜の名は、洲が横に張り出した浜だったという。
パリーが訪れ、日米和親条約締結の地となったのが、発展の原点なのかは存じませんが、立地の利点により成長したことは間違いないと思います。そうした歴史が積み重なっているのを見ることができるのは、興味深いです。横浜中華街もその歴史の中で、あの地に作られたものだったのを知って、一大観光地にもちゃんと歴史があったという認識を持たされました。
by DANKAI_Gen (2016-10-11 08:25) 

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