SSブログ

ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA その2 [歴史散歩]





ペリーが歩いた横浜_日米和親条約締結の碑-13.jpg
以前に通りかかった大桟橋方面への道に面した「開港広場」はリニューアル工事中
外から覗くと地球儀を模した日米和親条約締結を記念した碑があった



ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA  主催:NPO法人神奈川歴遊クラブ

 

  前記事に続き、ペリーが休日の1日を横浜の村と日本人を知るために歩いたとされる足跡を訪ねた。

 

日米和親条約地から歩き進んで、変則的4差路にでる。左側には以前オーシャンドリーム号の体験乗船の時にきた大桟橋が見える。

街路樹が茂っていてとても綺麗なとことだ。

 

その角に現在は工事中だが、開港広場という公園がある。

工事中のため中には入れないが、外からは地球儀を模した石碑を見ることができる。

そこにほど近い場所に、横浜開港資料館がある。

入館すると正面に樹木がそびえている。これが、日米和親条約締結地の図で右側に描かれていた鳥居と神社の祠、その横にある木立そのものだという。

 

関東大震災で幹の一部が焼けてしまったが、現在も緑を茂らしている玉楠(タブノキ)

 

この横浜開港資料館で小休止(ここまで結構疲れた)

 

横浜中華街をかすって、美味しそうな匂いの誘惑に負けることなく、元町を抜けて元町公園までの道のりです。

この工程は山坂が多く、明らかな運動不測のおいらは息を切らしてついていくのが大変だった。

 

コース

1)日米和親条約締結地

2)海辺通り(元浜町通り)

3)洲干弁天社(神奈川県立歴史博物館付近)

4)太田屋新田(太田屋通り)

5)横浜新田(中華街)

6)元町公園・貝殻坂

7)東漸寺跡(北方小学校)

8)麒麟麦酒開源記念碑

9)横浜外国人墓地

10)外国人墓地22区(海兵隊員ウィリアムズの埋葬地辺り)

11)増徳院跡

12)石川徳右衛門居宅(代官屋敷)

 

コースの順は各班との兼ね合いから1)から順番とはなっていなかった。

実際に巡った順番に何回かに分けて記事にしていきます。

 


 

 

 

   



ペリーが歩いた横浜_横浜開港資料館-14.jpg
横浜開港資料館
 
ペリーが歩いた横浜_横浜開港資料館-15.jpg
展示エリアのほかに中庭や休憩エリアもある
中庭にどんと鎮座しているのが、玉楠(タブノキ)
 
ペリーが歩いた横浜_玉楠の木-16.jpg
 
玉楠(たまくす)の木 tabunoki tree in Courtyaed
中庭にある玉楠の木は、江戸時代から同地にあり、日米和親条約の締結(安政元年、1854)は、この玉楠の木の近くで行われたと言われている。
この玉楠の木は、大正12年の関東大震災によって幹の部分を消失下が、残った根から新しい芽が出て現在のものとなった。
いわば横浜の歴史を見つめた生き証人ともいえる。
 
(現地の説明板から)
 
ペリーが歩いた横浜_銀杏-17.jpg
横浜開港資料館を後にして、日本大通りを横浜スタジアム方向へ再び歩き出す。
銀杏がたわわに実り一部は路上に落ちている
独特の匂いが辺りを包む
それにしても横浜って銀杏が多いな
 
ペリーが歩いた横浜_横浜新田-18.jpg
横浜中華街の南側を通過
この先の五差路辺りが横浜新田だと言うが何も手がかりがない
 
5)横浜新田(中華街)
現在の中華街。19世紀初頭(1804〜18年の文化年間)に、吉田新田と州干島の間の小さな内海を埋め立て開発。
商人や豪農の投資ではなく、農民の協力による村請新田。
1859(安政6)年の開港当初はまだ田んぼで、居留地を造成するための埋め立てがほぼ完了したのは1861(文久元)年。
開港以後、横浜居留地の整備が進む中で、本町通りや海岸通りには西洋人の商館が立ち並んだが、中国人はこの付近に店を開いた。
やがて劇場、関帝廟を造り、周辺に人々が集まり住み中華街を形成していく。
1877’(明治10)年には、横浜在住中国人 1,142人の半数がこの地区にいた。
現在は、東西500m、南北400m(0.2平方キロ)に中に、総店舗数600店以上(うち中華料理店200店以上)があると言う。
 
(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料を転載)
 
 
ペリーが歩いた横浜_元町-19.jpg
前田橋を渡り元町へ
道路の向こうは小高い丘になっていて、突き当り
ペリーの当時は階段があって直進したと言われる
 
ペリーが歩いた横浜_元町電柱-20.jpg
元町のひねくれた電柱
狭い道と電柱の制限を加味して、こうなったんだろう。
いっそ地下化すればと思うけど、色々事情があるんだとうな
 
ペリーが歩いた横浜_ジェラール貯水槽-21.jpg
先の小高い丘に差し掛かった頃、ジェラール水屋敷貯水槽が出現
今でも豊富な水を湛えている
 
国登録有形文化財
幕末に来日したフランス人実業家アルフレッド・ジェラールは、山手居留地77番・78番の地を得ると、
谷戸に湧き出る豊富な湧水を利用して、横浜港に出入りする船舶への給水事業を開始した。
「水屋敷」の名前はここに由来しています。
またジェラールは蒸気機関を導入した工場を建設し、フランス瓦や煉瓦・土管・タイルなど建設資材の
製造・販売も手がけていました。
この煉瓦造貯水槽は工場の入口部分に位置しており、元町公園一帯が、当時のジェラール工場の敷地でした。
現存するジェラール工場の遺構としては、この貯水槽のほか、元町公園にもう一つの煉瓦造地下貯水槽の存在が確認されています。
(現場の説明板を抜粋)
 
 
ペリーが歩いた横浜_元町公園-22.jpg
元町公園
 
6)元町公園・貝殻坂
 元町公園は、面積約7,000坪。古くは「池の谷戸」と称され、良質な水がわし出る場所だった。
関東大震災後に市有地となり1930年(昭和5)年に開演、1984(昭和59)年に再整備された。
その後、エリスマン邸やベールックホールが移築された。
現在の公園の中心部は、かつて仏人のアルフレッド・ジェラールが所有(永代借地権)していた。
彼はこの湧水を利用し、1870(明治3)年頃に外国船への水供給業を開始。
さらに1873(明治6)年頃からは、木造の工場を建てフランス瓦や煉瓦を製造。その後、他の仏人に経営を引き継ぎ1878(明治11)年に帰国。工場は明治末まで存続した。
大正期に入り、トーマス栗原が監督、谷崎潤一郎が文芸顧問を務める大正活映撮影所が置かれ、短い期間ではあったが映画を製作する場となった。
貝殻坂は山手通りに上る坂の一つ。かつて貝塚が発見されたのでこの名がつけられた。
また、古くは観音堂があったので観音坂とも言われた。
 
(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料を転載)
 
 
 
ペリーが歩いた横浜_元町公園-23.jpg

ペリーが歩いた横浜_ジェラール瓦-24.jpg
煉瓦造りの元町公園水泳場の屋根の一部にはジェラール瓦がふかれている
 
ペリーが歩いた横浜_山手80番館遺跡-25.jpg
外国人住宅跡 山手80番館遺跡
古びたレンガの上にここでも銀杏
 
ペリーが歩いた横浜_山手80番館遺跡-25-2.jpg
 山手80番館遺跡の碑
 
ペリーが歩いた横浜_エリスマン邸-26.jpg
 エリスマン邸
 
ペリーが歩いた横浜_公衆電話-27.jpg
邸内にあった公衆電話
公衆電話として使えますとあるが、ちょっと躊躇してしまうような姿
 
 
 

今回はこれで終わり、次回以降に続きます。






 


 





Sponsored Links



nice!(44)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 44

コメント 2

mimimomo

横浜いろんな顔を持っていますね。
by mimimomo (2016-10-12 19:36) 

DANKAI_Gen

mimimomo さま
いつもありがとうございます。
おっしゃるように色々な顔がありますね。
東京湾を破砕んで対岸になるんでしょうか、羨ましいような盛りだくさんのところです。
by DANKAI_Gen (2016-10-12 22:29) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました