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日帰りバスの旅 思い出の日光 [歴史散歩]

日帰りバス00.jpg


 ブログの更新を怠けていたら時系列がデタラメになっちゃった。
元来、怠け症のおいらは定期更新など出来そうにもないし、写真が溜まった時などのタイミングをはかってなども上手くいった試しがない。
じゃ、なんでブログってなるんだが?
ということで、今回も気まぐれの更新になりました。


最近は、コロナが終息傾向にあるんだか、テレビで旅番組が増えたような気がする。
そんな番組を見ていると行った気分にさせられるが、バーチャルではなくてリアルに行ってみたく思うこともある。
てなことで、近場の観光地。紅葉といえば日光。日帰りバスの旅にいつものオジン3名でバスに乗車。
集合場所は池袋駅東口からちょっと歩いたところ。

おいらが幼少の可愛かった?頃、西武池袋線の沿線にいたので、池袋は懐かしいところ。
でも変わりすぎちゃってよくわからん。


東照宮では小学生の団体をよく見かけた。
修学旅行の児童なんだろうか。
そういえば、おいらも修学旅行でこの地を訪れた?怪しいけど、うっすらした記憶がある。

今回の旅の記憶はいつまでもつんであろうか。




   


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(続)また昭和が消えていくのか 割烹旅館 玉川 [歴史散歩]

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(続)また昭和が消えていくのか 割烹旅館 玉川

 その昔、社会人として初めての職場が中央線の三鷹駅のそばにあった。その駅を横切るように玉川上水が流れていることをGoogleMapを見ていて気がついた。
駅の下を川が流れていたとは驚きだ。

それに職場の友達のお宅に向かうのに、五日市街道沿いの玉川上水を左手に見ながらよく行ったものだった。
玉川上水は身近な存在だった。
そんな玉川上水で太宰が入水したと聞いたことがあった。


割烹旅館 玉川で太宰治が泊まって小説を執筆したということに出会って、玉川上水を思い出す。奇しくも旅館 玉川と玉川上水と玉川が一致した。

おいらは太宰の小説に接したことはなかったが、多少の縁を感じなくもない。
これを機に小説の二、三も読んでみようか。

5月末に船橋に行った後で調べているうち、太宰治が病気療養のため1年余りを過ごしたと言うことを知って、6月になってから再び行ってきた。

船橋駅前は前回とは比べようもないほど人が多い。
帰りの時には、店によっては行列ができていた。一方では自粛の札を扉に貼って閉店している店もある。なんとも不思議な光景だ。

まずは、船橋市中央公民館の広場に移植された夾竹桃。
これは、太宰が住んでいた隣家から株分けしてもらって根付いた夾竹桃をのちにこの場所に移植したものだという。
夾竹桃は盛夏に満開となることで知られ、あの暑い中で花を愛でる人も多くはないだろ。
太宰はこの花をとても気に入っていたようだ。

続いて割烹旅館 玉川。 写真では入れ替わっています。
廃業のニュースの中には6月から解体が始まると書かれていたものもあったが、工事が始まっている様子はなく、見物している人もなく静かな佇まいを取り戻しているようだった。

千葉街道を千葉方面へ移動し、海老川の橋を渡って川沿いを北上。
海老川橋を経由して九重橋。ここは太宰の住んでいたという旧宅跡がある。
九重橋には太宰の肖像と代表作の「走れメロス」の一節を刻んだ本を形取ったオブジェが設置されています。
太宰の旧宅を経由して、船橋駅に戻りました。

 


  


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旧東海道 新橋から日本橋を歩く(その2) [歴史散歩]

歴遊クラブ日本橋014.jpg
京橋の親柱


旧東海道 新橋から日本橋を歩く(2)

 主催 NPO法人 神奈川歴遊クラブで企画されている歴遊という小旅行に参加した。と言っても昨年9月のこと。あれこれ忙しくて死語になったとも言われるネットサーフィンもままならず、遅くなってしまった。

その続きの記事がまたまたさらに遅れてしまって、去年の秋の話が、もうそこに春が来ている時期になってしまった。

首都高速の桁の下の京橋の親柱とか言われても、ここに京橋川があったと想像することは難しい。
京橋は日本橋から東海道を京へ向かう最初の橋ということで名付けられた。

いろいろ続くが、あまり地の利がないおいらなので、終着点の日本橋はまだかなぁ。
だいぶ歩いて疲れてきたかも。



   


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旧東海道 新橋から日本橋を歩く(その1) [歴史散歩]

歴遊クラブ日本橋00.jpg


旧東海道 新橋から日本橋を歩く(1)

 主催 NPO法人 神奈川歴遊クラブで企画されている歴遊という小旅行に参加した。と言っても昨年9月のこと。あれこれ忙しくて遅くなってしまった。

歴遊クラブの拠点はその名にあるように神奈川にある。あまり遠いところは行けないので都内などの企画があると時々参加させてもらっている。
以前は、江ノ島だったか。

今回の歴遊は、新橋駅SL広場に集合して日本橋まで旧東海道を行きながら、歴史的地点を巡っていくもの。
新橋、銀座、日本橋は結構出かけているので、知っているところばかりかと思っていたら、さにあらず、知らないところ、知っていても行っていないところが結構ありました。

こんな小旅行を2回に分けて記事にしていきます。
去年のことで忘れっちゃってるかも。




   


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恒例になってきた?七福神 今年は東海七福神めぐり [歴史散歩]

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恒例になってきた? 七福神 今年は東海七福神めぐり


 普段から信心深く、慎ましく生活している?かも知れないからか、年明けには七福神めぐりに出かけるのが恒例になってきた。
七福神を巡り歩くのは、結構な距離を歩くことになる。歩けるうちは、ご利益を期待してというより普段の運動不足を補うためってことになるのかも。

そんなこんなでいつものおじさん3人で出かけることとなりました。


今年の七福神めぐりは、旧東海道を往く「東海七福神」。
JR品川駅で京急に乗り換えて、すぐの新馬場駅で下車。しんばば駅かと思っていたが、しんばんば駅だった。高田の馬場だってばばですよね。難しいね。
駅に到着前の右側に品川神社が見えます。目が良い人だったら、大黒天も見えます。

そう、1番目は品川神社の大黒天。
次は、養願寺(布袋尊)ー>一心寺(寿老人)ー>荏原神社(恵比寿)ー>品川寺(毘沙門天)(この読みがしながわでなくてほんせんだという、確かに寺名の読は音読みが一般的。しながわの地にあって、ほんせんと読ませるのは無理がある?)ー>天祖・諏訪神社(福禄寿)ー>最後は、磐井神社(弁財天)

旧東海道だけあって、沿道にはクラシックな建物や、江戸を感じさせるような史跡があったりと、楽しいところでした。

日中は、冬だということを忘れさせるような暑いようななか、1万6千歩 3時間のお参りの旅でした。




  


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江の島を歩く その2 [歴史散歩]

江ノ島散策019.jpg
奥津宮

江の島を歩く その2

 

 前記事に続いて江の島の旅。
遠くからでも江の島の中央あたりにそびえている江の島展望灯台までくると、上り坂も一段落。
現金なもので登りがなければ、軽快な足取りで奥津宮<御祭神:田紀理比賣命(たぎりひめのみこと)>から。
記事の作成にあたり、調べていくうち初めてわかったことが、江島神社は奥津宮も含め辺津宮、中津宮、そして岩屋の全てが江島神社だったこと。
これだから、江戸期から有名なところだったと納得。
この奥津宮は建築資材を運び入れるのも大変だったと思うが、歴史を感じる立派な佇まいでとても良かった。
階段、坂道から解放されて気がほころんだのかもしれないが。
続いて足を進めることにして、江戸の火消し「も組」が寄贈したという、変わった風情の鳥居をくぐると、急な下りの石段が待ち受けていた。
一気に海岸線近くまで降下する。
行きは良いけど、帰りの登りが怖い。
稚児の淵、そして前回の訪問では訪れなかった江の島岩屋へ。
きつい石段を休みやすみ、ハアハアしながら登るが帽子のツバで登りきったところがなかなか視界に入ってこない。
先が見えないところが辛い。
とは言っても、終わりのない旅はないのでと思うしかない。
ここを登れば、あとは概ね下り坂。ゆっくり景色を楽しみながら行きましょう。

 

  


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江の島を歩く その1 [歴史散歩]

江ノ島散策00.jpg


江の島を歩く その1

 

 時々だけど、「神奈川歴遊クラブ」主催の歴史散歩を楽しませてもらっている。もともとは友人の知人がそのクラブに属しているから機会をもらっている。
その友人とともに参加した。今年の4月末のことだった。

ところで、おいらはカメラ撮影済みの写真データをカメラからSDメモリカードを取り出して、USBリーダーライターに差し込んで、Macに取り込んでいる。

歳はとりたくないって言葉がこれ以上ぴったりの失敗をやらかしてしまった。
そうなんです。SDメモリカードをカメラに戻し忘れて、メモリカードなしのカメラを抱えて江の島に出かけてしまったんです。
フル充電したカメラをバッグにしまいこんで、順調に電車を乗り継いで、片瀬江ノ島駅に降り立って、早速カメラを取り出して特徴ある駅舎をパチリ。

その瞬間ファインダーにいつもは現れない文字が表示される。
何だろう、気にはなったが次々と周辺の撮影。
一瞬置いて、背筋に冷や汗が。。。
バッグ内を弄るが予備のメモリーカードが出てこない。あとは、右手の人差し指がウズウズ動くが、できるだけ記憶の画像として情けないおいらの脳に焼き付けることに専念した。

そうはいっても、記憶力も減退していることから、いつかは同じコースを辿ってしっかし写真として残しておきたいと心に留めた1日でした。
ところが、梅雨らしい梅雨もないまま、激暑の夏がお訪れて、リベンジすることも忘れてしまいそう。
おじさんが出歩いても熱中症で倒れそうにない陽気になった10月末に江の島を再訪した。

江の島は、遠くから眺めるにはいいが、階段、坂が多くて年寄り泣かせ?の地だと改めて認識させられた。
多くの人が江島神社の参道を行って神社にお参りしてエスカーを利用して江の島展望灯台に登って360度の景色を堪能するのと、徒歩で島を廻るのとは随分印象が違う。
コースは、江の島弁天橋→モース記念碑→ヨットハーバー→聖天島公園→青銅の鳥居→江島神社辺津宮・八坂神社→中津宮→山ふたつ→奥津宮→稚児の淵→朱の鳥居

2回に分けて掲載していきます。
 

 

  


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マンガの思い出 [歴史散歩]

トキワ荘00.jpg


マンガの思い出

 

 おいらの最古のマンガの思い出は、父とともに川越に行ったとき、その時に買ってもらったか事前に手に入れて持参したかのマンガ(ジャングルもの)(作者まで覚えていないが手塚治虫先生かも)を読みならが歩いていたら、電柱にぶつかったっていうマンガみたいな記憶。
小学生低学年の頃だったかも。

次に小学生高学年になるとマンガ週刊誌「少年マガジン」が刊行された。
いち早く購入して読みふけった。
そのうち二匹目のドジョウ「少年サンデー」が出てきて、坊ちゃん一緒に遊びましょう。なんていうもんだから、大変になってきた。時間も経済的にも。

で、長い時間をおいて子供ながら真剣に考えて、購読をやめた。

それ以来、マンガに接することが少なくなったが、話は前後してしまうかもしれないが、大泉東映撮影所ってところに動画スタジオってものができて、アニメの配信を始めた。
学校から映画館に行ったような記憶もあるが、「白蛇伝」っていうのが記憶の底に残っている。
大泉に住んでいたから、なんか誇らしいと感じることもあった。

この広い周辺には有名なマンガ家の先生が住んでいることも聞いたことがあった。
トキワ荘という名称は、昨今のマンガ・アニメが日本を代表するコンテンツ産業?だと聞いてからのことかも。

それでいつもの3人のおじさんが連れ立って、西武池袋線の椎名町駅で下車。
駅前は西武線の駅前らしく、雑然として細い道が入り組んでいる。
こんな細い道でも大きなバスが行き来しているのは驚いた。

小さな地図を見ていると方向音痴状態になって、あらぬ方向に行ったりしたが、一箇所のポイントに行き着けばと歩き回って散策することができました。

豊島区とくにこの辺りは歴史的な名所がなくて、マンガの聖地を打ち出していると聞くが、それにしては少し寂しい感じもしなくはなかった。
続いて、むかしの大泉動画スタジオに変わって「東映アニメーション」に「アニメーションミュージアム」っていうのがあるっていうことで移動することにした。
おいらが大泉から、千葉に移動する時分に、オズっていう商業施設が撮影所内のオープンセット敷地の一部にできた。(調べてみたら、1983年4月の開業だって、えっそんなに経つの びっくり)
周りは随分変わったが、懐かしいオズは変わらない。
内部は例によって、寂れて人も少なく外はいい天気だけど、内部は曇りがちってって雰囲気。
 

 

  


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旧大須賀家住宅 in 加曽利貝塚公園 [歴史散歩]

旧大須賀家住宅-01.jpg
オリジナルの藁葺き屋根は、その姿はなく金属板で覆われてる

藁葺きの職人がいないことと葺き替えには莫大な経費がかかるという
ことによるようだが、こうして見ると金属製の屋根だけが浮いている


旧大須賀家住宅 in 加曽利貝塚公園

 

 出かけるには、とても良い季節が巡ってきた。出かけるたびに撮影写真のストックは多くなったが、そっちの方に一所懸命で、ブログの更新がおろそかになってしまった。

 

加曽利貝塚公園の博物館のさらに奥、足元が小砂利で坂を下って行かないといけないため、ここまで来る人は多くはない。

縄文時代に集落があったとの証としての貝塚だというのに、ちょっと場違いとも思える江戸期の大きな屋敷がある。

 

住宅前の説明板を見ると、

<旧大須賀家住宅

元幕張町にあった大須賀家の住宅。昭和43年千葉氏に寄贈され、民俗資料として保存のため、ここに移築した。

江戸時代、幕張町は天領に属し、北町奉行配下にあり、大須賀家はその代官所にあてられ、俗称「北の代官所」と呼ばれていたという。

この屋敷は、寛保〜寛延年間(1741〜1750)の建造と思われ、一部に近年の改造の跡が見られる。奥の間は比較的よく旧態を残し、武家風の書院造で、床の間や違棚などに、その特徴が見られる。

千葉私立加曽利貝塚博物館>

 

幕張町からの移築って、幕張町のどこにあったのか調べて見ると、意外に簡単に見つかった。

子守神社神社の秋の例祭で神輿が行き来するところの幕張町3丁目公園が跡地だという。

意外なところにあった。

 

公園に石碑があって確かに大須賀家住宅跡地だと確認できた。

 

二つの情報が繋がった。

気にかかっていたものが得心できてよかった。

 



 

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ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA その3 [歴史散歩]

ペリーが歩いた横浜_キリン公園-28.jpg
キリン公園の石碑「麒麟麦酒開源記念碑」
キリン公園って言うのもすごい命名だが、ここはペリーの時代以降のものなので、サービスといったところか
ところで、横浜はなんとか発祥の地となっているところがすごく多い
海外の情報、文化、技術が非常に大切だと言うことだろうか

こんな日にこの場所で冷えたビールでも飲みたい雰囲気だが、
まだ先があるので我慢


ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA  主催:NPO法人神奈川歴遊クラブ

 

  前記事に続き、ペリーが休日の1日を横浜の村と日本人を知るために歩いたとされる足跡を訪ねた。

 

前記事の元町公園の木立の日陰はありがたかったが、山坂で汗をかいたのでプラスマイナスゼロってところ。

山手の高級住宅地らしき坂道を下っていく。

T字路の突き当りが小学校。小学校の前を行くと左側に小さな公園。

公園の名がキリン公園だって。

 

もと来た道を戻りながら歩いていると英語が聞こえてくる。

外国人などが多い学校なのか。

さすが、横浜らしいねと変なところで感心させられた。

 

あえて英会話教室なんかに通わなくても、小さい時期からこうした環境にいれば英語も不自由なく話せるんだろか。

もっとも考え自己を主張し相手に伝えることの技術がないと無意味だけどね。。。

 

日米和親条約の交渉の時に日本側に日本人の通訳がいると言う話があったことを思い出した。

当時はオランダ語が外国語の主流であったので、通訳は英語<ー>オランダ語(米側)<ー>オランダ語(日本側)<ー>日本語 だったようだ。

 

観光地となっている横浜外国人墓地を見て、貝殻坂を下って行くと外国人墓地として最初に作られたエリアがある。

ここにペリーの部下などが葬られていると言う説明があったが、塀の外から覗いても見ることができないようだ。

ここからしばらく歩くと、今回の最終目的地 代官坂。

ペリーはここの代官屋敷で休憩して多分な接待と受けたと言う。

昔の日本人の寛容さが伝わってくる。

 

暑い中での小旅行で非常に興味深いお話を交えながらの主催者、関係者の方々には感謝申し上げます。

友人の歩数計で15.000以上だったようで久しぶりの徒歩による運動と言える運動だった。

 

 

コース

1)日米和親条約締結地

2)海辺通り(元浜町通り)

3)洲干弁天社(神奈川県立歴史博物館付近)

4)太田屋新田(太田屋通り)

5)横浜新田(中華街)

6)元町公園・貝殻坂

7)東漸寺跡(北方小学校)

8)麒麟麦酒開源記念碑

9)横浜外国人墓地

10)外国人墓地22区(海兵隊員ウィリアムズの埋葬地辺り)

11)増徳院跡

12)石川徳右衛門居宅(代官屋敷)

 

コースの順は各班との兼ね合いから1)から順番とはなっていなかった。

このシリーズは今回をもって終わります。

 


 

 

 

   


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ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA その2 [歴史散歩]

ペリーが歩いた横浜_日米和親条約締結の碑-13.jpg
以前に通りかかった大桟橋方面への道に面した「開港広場」はリニューアル工事中
外から覗くと地球儀を模した日米和親条約締結を記念した碑があった



ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA  主催:NPO法人神奈川歴遊クラブ

 

  前記事に続き、ペリーが休日の1日を横浜の村と日本人を知るために歩いたとされる足跡を訪ねた。

 

日米和親条約地から歩き進んで、変則的4差路にでる。左側には以前オーシャンドリーム号の体験乗船の時にきた大桟橋が見える。

街路樹が茂っていてとても綺麗なとことだ。

 

その角に現在は工事中だが、開港広場という公園がある。

工事中のため中には入れないが、外からは地球儀を模した石碑を見ることができる。

そこにほど近い場所に、横浜開港資料館がある。

入館すると正面に樹木がそびえている。これが、日米和親条約締結地の図で右側に描かれていた鳥居と神社の祠、その横にある木立そのものだという。

 

関東大震災で幹の一部が焼けてしまったが、現在も緑を茂らしている玉楠(タブノキ)

 

この横浜開港資料館で小休止(ここまで結構疲れた)

 

横浜中華街をかすって、美味しそうな匂いの誘惑に負けることなく、元町を抜けて元町公園までの道のりです。

この工程は山坂が多く、明らかな運動不測のおいらは息を切らしてついていくのが大変だった。

 

コース

1)日米和親条約締結地

2)海辺通り(元浜町通り)

3)洲干弁天社(神奈川県立歴史博物館付近)

4)太田屋新田(太田屋通り)

5)横浜新田(中華街)

6)元町公園・貝殻坂

7)東漸寺跡(北方小学校)

8)麒麟麦酒開源記念碑

9)横浜外国人墓地

10)外国人墓地22区(海兵隊員ウィリアムズの埋葬地辺り)

11)増徳院跡

12)石川徳右衛門居宅(代官屋敷)

 

コースの順は各班との兼ね合いから1)から順番とはなっていなかった。

実際に巡った順番に何回かに分けて記事にしていきます。

 


 

 

 

   


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ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA その1 [歴史散歩]

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ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA  主催:NPO法人神奈川歴遊クラブ

 

   友人から彼の知人が所属するNPO法人が主催する歴史散歩の会があると紹介された。

興味があったのと、ここ最近の天候不順で主に散歩でしか運動というものをしなかったことで、明らかな運動不足であるだろうとの反省から、友人からのありがたい紹介を受けて出かけることにして申し込んだ。

もちろん、紹介された友人共々。

 

ペリーの名はもちろん知ってはいたが、その名で思い出す地は下田かな。

下田は日米和親条約によって開港した五港の一つで、日米和親条約が締結された地が横浜だということがわかった。

 

 

西欧列強は産業革命によって大量生産の手段を得たことで、素材を得て、加工品を輸出する交易を求めて、東アジアに進出しようとした。

当時の日本は海外との交易を禁止する鎖国政策をとっていたため、また英国の清国の植民地化などを見聞きしていることから容易に開国することはできなかった。

ヨーロッパの列強に比べると米国は大国ではあったが、戦火の実績もなく交渉しやすいと判断されたようだ。

 

 

それで、1854(嘉永7)年3月、4回の会談を経て日米和親条約が締結された。

この地が実に横浜だったのだ。

 

 

<条約締結後の4月6日、つかの間の休日を得て、ペリーは12名の部下とともに横浜村周辺を散策。

最後に訪れた名主の石川徳右衛門宅では家族の温かい接待を受け、村人とも交流して帰船しました。

4日後、品川沖まで船を進め、江戸の町を遠望。

4月18日、条約で開港されることになった下田と箱館を視察するために江戸湾を後にしました。

 

ペリーは日本人との交流を通して、当初は文明社会と半野蛮人との交渉と考え、軍事力を背景にした交渉をしましたが、次第に日本は将来、技術的な分野では先進諸国のライバルになるだろうと予言するようになったという。>

(NPO法人 神奈川歴遊クラブ 資料より抜粋)

 

 

 

この1854年4月6日の休日のペリーの足跡を辿るという。

 

JR根岸線・京浜東北線 根岸駅9:30集合

この秋は天候不順で雨の心配をしていたが、午前中はどんよりした重い雲に覆われていたが、いつしか青空に変わって、夏に逆戻りしたような暑い日となった。

 

多数の参加希望者がいて、何班かに分かれてコースをめぐる。

 

横浜は観光地としても人気のスポットだが、歴史的なスポットも数多くあって、それぞれに楽しめる大変よい場所だと再認識した。

 

コース

1)日米和親条約締結地

2)海辺通り(元浜町通り)

3)洲干弁天社(神奈川県立歴史博物館付近)

4)太田屋新田(太田屋通り)

5)横浜新田(中華街)

6)元町公園・貝殻坂

7)東漸寺跡(北方小学校)

8)麒麟麦酒開源記念碑

9)横浜外国人墓地

10)外国人墓地22区(海兵隊員ウィリアムズの埋葬地辺り)

11)増徳院跡

12)石川徳右衛門居宅(代官屋敷)

 

コースの順は各班との兼ね合いから1)から順番とはなっていなかった。

実際に巡った順番に何回かに分けて記事にしていきます。

 

今回はこれで終わり、次回以降に続きます。

 

 

 

   


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長柄横穴群(国指定史跡) [歴史散歩]

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長柄横穴群(ながらよこあなぐん)[千葉県長生郡長柄町]

 

   ときどき、「道の駅ながら」なんかに行くことがあって、この横穴群の存在は道の駅建物内の壁に写真が貼ってあったので知っていたが、興味はあったものの行く機会がなかった。

何かの折、近くまで来たので寄ってみようと思ったのが夕方近く。

 

田畑のあぜ道のような狭い道をクネクネ行くと開けた場所に冒頭の資料館(グレーの建物)が見えた。

実はこの写真はGoogleMapのストリートビューから拝借したものだ。

夕方近くて、暗くならないうちに横穴群を見たかったので、急いでいたので資料館の写真を撮り忘れていたんだ。

 

この地に行った後で驚いたのは、このストリートビューが車のすれ違いも不自由するような狭い道まで入り込んで見ることができたことだ。

 

 

ここからは「史跡長柄横穴群」(長柄町教育委員会)の資料から抜粋

【概要】

横穴墓は、500〜700年の古墳時代中期から後期にかけて九州から東北地方南部までつくられていた。

史跡長柄横穴群は、南北に広がる谷の東側丘陵と西側丘陵の東斜面にある。横穴墓は全て「高壇式(こうだんしき)」と呼ばれる玄室(げんしつ)が一段高くなる形態である。

横穴墓は、丘陵地の斜面に横に穴を掘ってお墓としたことから(よこあなぼ)と呼ばれている。

また、横穴墓は数基がまとまって分布し、横穴墓1基には、複数の遺体た安置されている。


【保存整備】

長柄町では国および県からの補助から平成8年度に考古学などの専門委員を委託し、保存整備の基本方針を計画。

平成22年度から史跡長柄横穴群資料館が開館しています。

 

 

資料館から背面の丘をたどる小道を行くと、横穴墓が次々と現れる。

それぞれに解説の表示板が立っているが、長時間風雨にさらされたか、判読しにくいものが多かったのが、ちょっと残念。

横穴墓の玄室を覗き込むことができるもの、完全に封鎖されて見ることができないものもある。

 

不思議な雰囲気の中に身を置くのもいいかもと思った。

 

 

 

 

 

 

   


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市川考古博物館に行ってみた [歴史散歩]

市川考古博物館_案内-01.jpg


市川考古博物館へ行ってみた

  ことのきっかけは、加曽利貝塚土器づくり同好会にて、おいらとしての2作目として制作(?)した土器(小形鉢形土器)関山Ⅰ式  高谷津遺跡 を見様見真似、無に等しい知識で制作したが、<過去記事はこちらから> 縄文の付け方が「違うんじゃない」とある方からご指摘いただいて、改めて資料の写真をみると、なるほどオリジナルの写真と見比べるとちょっと違う。
違うが、どうすると再現できるかは分かるはずもなく、お手上げ。


オリジナルの土器が市川考古博物館所蔵とあるので実物を見ないことには、はじまらんだろうということで出かけてみた。


初めて行くところは予想以上に遠く感じる。
道は狭いし交通量は多いし、何度か道を間違えてやっとたどり着いた。

博物館内の写真撮影は届け出が必要で、しかも写真の公開(ブログなど)は許されていないらしい。
ということで、写真は撮れたが公開はできません。

写真なしで館内の様子を文字で伝えるほど、文才もないので、ここは「すみません」。
館内は時代やテーマごとに小部屋になっているので、初心者で楽しめて、見やすい。


手短に館内をぐるっと廻ったが、お目当ての土器はなかった。
あらまっ、目的未達で帰るしかないか。


通りかかった、関係者の方にどこかに展示されているのか聞いたところ、土器の担当の方を呼んできてくれた。
今は展示していませんという絶望的回答をいただき、諦めかけたとき、「ちょっと、収蔵庫を見てくる」とおっしゃってくれた。

「このような場合は、事前に連絡してくれないと、お見せするこはできません」
ということでしたが、例外的に見せていただけることになりました。


加曽利貝塚土器づくり同好会のメンバーの方から、
この縄文模様は縄文原体(じょうもんげんたい)の作り方に依存している。というか縄文土器を見て、それと同じ模様を得ようとしたら、それと同じ縄文を分析して同じように原体から作らないといけない。

もちろん、おいらにはそんな力量はない。
この縄文を施文するものを縄文原体(じょうもんげんたい)というらしいことをやっと覚えた。

この縄文原体を作る方法や材料の採取の方法など一通り教えていただいたが、難し過ぎてコツがつかめない。

いつの日かもうちょっとマシな土器を作りたいっていうきっかけになったかも。


    

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タグ:博物館
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ちょい寄り 上野東照宮 [歴史散歩]

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ちょい寄り  上野東照宮

  上野国立科学博物館がリニューアルオープンした。  この夏休みのタイミングということからテレビなんかで子ども向けの科学に馴染む施設やイベントが開催されているというニュースなどで報じられていた。

案の定、上野駅からの行く道にも、明かにそうだという親子連れがたくさん。
館内は凄い混雑だった。
子どもたちがこういうことに興味を持ってくれることには、賛成だけどたいへんだった。

帰りに上野公園内を散策して、上野東照宮にたどり着いた。
前回来たときは、修復工事中で唐門などの写真をあしらった工事用養生シートに覆われていた。

しっとりとした参道をゆっくり進んでいくと、金色に輝く唐門があった。
この煌びやかさはビックリした。
こちらもリニューアルオープンだ。

寺社の建造物は時間の経過とともに、色彩が劣化しながら自然の環境に溶け込むような存在となっていることが多いが、建造当時はビックリするほど煌びやかだ。

唐門、本殿も修復工事(2009年から約5年間)が完了したので、日光東照宮にも引けをとらないような煌びやかな存在になった。



    


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千葉公園内にあった鉄道第一連隊演習所名残り [歴史散歩]

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 鉄道第一連隊演習所名残り
 
大賀ハスを観るため訪れた千葉公園。
JR千葉駅から徒歩でいくと、南門からの入園になる。入るとすぐに通路の右側に上記の説明板が現れる。
実は昨年の同じ時期に同じコースで訪れたので、この説明板の存在は知っていたが、じっくり読む余裕がなかったんだ。せっかく朝早めに到着したのにハス池に直行ということで。
 
 
この説明板には次のように記されていた
 
<鉄道第一連隊演習所跡
Remains of Maneuvering Ground for Railroad No.1
旧陸軍鉄道連隊が明治41年(1908)、旧千葉町都賀村(現椿森)と津田沼町に設置され、大正7年(1918)の改編により千葉町に鉄道第一連隊、津田沼町に第二連隊が設置された。
鉄道第一連隊演習所は、現在の千葉公園の綿打池付近から競輪場一帯で、池の対岸に架橋演習に使用したコンクリート製の橋脚や、ここから北西約150mのところにトンネル工事演習に使用したコンクリート製のドームがあり、昔日の面影を残している。

The remains extend throughout the present Chiba Park.
Still remaining in the Park are the concrete bridge piers used for bridge-building exercises and the concrete dome used for tunnel excavation exercises.

平成2年3月
千葉市教育委員会>
 
 
 
また、千葉市のサイトの「千葉公園のあらまし」では。次のように説明されています。
 

<明治41年(1908年)、旧陸軍はここに鉄道連隊を設けました。

その後、大正7年10月(1918年)、津田沼に鉄道第二連隊ができるとともに名称が鉄道第一連隊と変わりました。

鉄道第一連隊の兵士たちは、この辺一帯の演習作業場で、鉄道の保守、新設、修理をはじめ、敵地での鉄道の破壊訓練を行っていました。

現在でもその名残りとして公園事務所脇のコンクリート造りトンネルや荒木山周囲に橋脚などがあり、当時の面影を伝えています。


終戦後の混乱期には、園内にある樹木のほとんどは切り倒されて燃料になってしまったり、敷地の一部は食糧難を補うための菜園にされたりしたそうです。
 
その後、市民の憩いの場、県都にふさわしい公園とするため、昭和21(1946)年6月に千葉戦災復興都市計画に基づき本市初の総合公園として整備することが決定されました。
 
昭和24年(1949年)から公園整備にとりかかり、順次、施設を整えてきた結果、昭和40年頃ほぼ現在の形になりました。>
 
 
それで、観蓮のあとで名残りとやらを見て回った。
 

   

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半日 船橋にどっぷり浸かってきた [歴史散歩]

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徳川家康400回忌<今よみがえるその足あと!>
 
 以前、船橋漁港の水神祭でのこと、祭りの後でスズキの唐揚げを食べているとき、チラシを配っている人がいてこのようなチラシを手にした。
風が強いし、寒いしでポケットに仕舞い込んだ。
あとで見返してみると興味深いと思い電話にて申し込んだ。
 
 
 
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 今年は徳川家康が亡くなって400年という切れ目の年だということで、家康に名残のある各地ではいろいろなイベントが計画されていることだろうが、船橋のこの地は先駆けて、このようなイベントを計画したということだ。
 
船橋と家康との関係は「あっと」思い出せる人は少ないと思う。おいらもそのことにピンとこない。
船橋漁民とのつながりや千葉県の東金方面への鷹狩りの道すがらでの宿泊地などと意外に関係しているということを理解できた。
 
市民団体「ふなばし街歩きネットワーク」の主催で、ボランティアの事前準備や知識のお陰で、ひとりでぶらっとしては分からないことや各ポイントのつながり、時間的関係など、また深い知識が入ることでさらに面白くなってきた。
 
このようなイベントはときどき計画されるようだが、船橋住民ではないので、情報入手が困難なのが残念だ。
 
 
 まずは4月18日の10時に京成線の船橋駅に集合して、「船橋御殿跡と東照宮」−>「船橋宿」−>「海老川橋(船橋地名発祥の地)」−>「船橋大神宮=意富比神社(おおひじんじゃ)」−>「船橋漁港(御菜浦)」−>「不動院」
と徒歩で巡り 12:30現地散会
 
 

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上総国分尼寺(法花寺)跡とその周辺に出かけて見た [歴史散歩]

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 上総国分尼寺(法花寺)跡とその周辺に出かけて見た
 
 以前に行ったことがあったが、春の陽気に誘われてもう一度じっくりと見たくて出かけてみた。
千葉県市原市国分寺台中央3-5-2 にある「史跡 上総国分尼寺跡展示館」と、上総国分尼寺(法花寺)の史跡の一部と当時の建造物の一部「中門」「回廊」などを復元したものだ。
当時と同じ位置に同じような工法をもって復元された中門と回廊は素晴らしいが金堂が復元予定も含めてないのがちょっと残念だ。
 
市原市市役所を挟んで反対側に「上総国分僧寺跡」も含めて2箇所を見て回った。
 

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「萩・津和野・安芸の宮島・角島・門司港レトロ大感謝祭の3日間」ツアー第3日目 [歴史散歩]

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 「萩・津和野・安芸の宮島・角島・門司港レトロ大感謝祭の3日間」ツアー第3日目
 
昨夜は暗くなってから遅い時間にホテル(北九州八幡 ロイヤルホテル)に入ったので、周りの様子はわからなかった。早朝に窓から覗くと、なにやら遊園地のようなものが見えた。
これが後に「スペースワールド」テーマパークであるとわかった。
そう言えば「スペースシャトル」みたいなモノがみえる。
 
「あのスペースシャトルは原寸大であろうか」という議論がしばらく続いた。
やや小さいというのが私たちの結論だが、真相はどうなんだろうか。
 
例によって、早朝の温泉を堪能して、食事。
今日の出発は7時半とやや早い。しかもガイドさんの話ではロイヤルホテルはどこでも共通してエレベーターがなかなか来ないということで評判なので、早めに集合場所に来て欲しいということ。
 
3日目の行程は以下のよう
バス   〜 <関門橋> 〜宮島 厳島神社
宮島 党内の「だいこん屋」にて昼食 (OPT)
バス   〜岩国・錦帯橋 (渡橋料金 OPT ¥300)
バス   〜岩国錦帯橋空港
ANA636  岩国錦帯橋空港〜羽田空港
 

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「萩・津和野・安芸の宮島・角島・門司港レトロ大感謝祭の3日間」ツアー第2日目その2 [歴史散歩]

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「萩・津和野・安芸の宮島・角島・門司港レトロ大感謝祭の3日間」ツアー第2日目 その2


このツアーでメインになると思われる2日目の続き

関門トンネルを想像以上の短時間で向けると、九州に上陸。
下関と門司がこれほど近接しているとは知りませんでした。
門司は山口県と違って賑やかだった。
異なる国に入国したようだ。

まずは物産店「村田蒲鉾・門司店」へ。駐車場に入っても降車することなく、店の人からお買い得品の説明のために車内で説明があった。
これって目玉商品を見つける必要がないので、顧客にとっては時間を節約できるし、店にとっては売り上げ向上につながるお土産を考えている人にとってはいいシステムだ。
試食もたくさんあって、多くの人が手に手にレジ袋をたくさん持ってバスに帰ってきた。
さすがだね。
この店の本店は山口県にあるらしい。

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