また昭和が消えていくのか 割烹旅館 玉川 [建物]
また昭和が消えていくのか 割烹旅館 玉川
「割烹旅館 玉川」が本年4月をもって閉鎖したとのニュースに接し、以前たまたま通りかかった時の素晴らしい風情ある建物を見て、再訪してみたいと思っていたのを思い出した。
報道では6月から解体工事が始まるとあったので、天候不順が終わった晴れ間を確認して行ってみることにした。
緊急事態宣言が解除されるという会見があるという前日のことだった。
報道内容を要約すると・・・
今年創業100年を迎え、国の登録有形文化財となっている「割烹旅館 玉川」が廃業、閉館していることがわかった。
新型コロナウイルスに伴いキャンセル続出や昨年の台風被害の費用負担などで経営状況が悪化し、廃業の決断に至った。建物は6月以降取り壊しの予定。
割烹料理と旅館業の業態を持つ玉川は新型コロナウイルスの影響と老朽化してきた建物などの今後も益々増え続けるであろう、修繕補修費用は大変な負担となることは素人目にも明らかで、コロナ禍が過ぎ去って行くまでは体力がもたなかったと言うことだったのだろう。
街にあった無名の食堂、居酒屋、ラーメン屋なども新聞にも取り上げることなく、ひっそりと消えていった店も少なくないと思う。
そこで街の発展とともに生きてきた歴史を根こそぎ無くしていいものだろうか。
無くなっても、それが歴史というのだろうか。
総武線 船橋で下車して、駅前はコロナ禍がなかったように賑やかで人通りも多かった。
脇道に入って行くと店頭に営業を自粛している張り紙も目立つ。
脇道に入ったため、玉川までは遠くなったが、久しぶりの街の景色を楽しんだ。
船橋市役所の方向に道を折れて行くと、その建物があった。すでに何人かの人がスマホやカメラで建物を撮っていた。
消え去ってしまうその建物を記録するためには写真は手っ取り早いが、もっと味わい尽くしたい。
建物の外装はなるほど痛んでいるように見えた。
部屋の中で白熱電球の光が漏れてくる。
客の姿がないのが光だけは赤みのある暖かさに溢れていた。
誰の目にも貴重なものに見えたに違いない。
大嘗宮一般参観に行った <昨年のはなし> [建物]
大嘗宮一般参観に行った <昨年のはなし>
と思いながら顔を下腹部に向けてため息をつく、今日この頃である。
新型コロナウイルスが対岸の火事で、まさか今のようになるなんて誰もが(責任ある方も含め)想像もしていない時期の12月4日に大嘗宮一般参観に行った。
東京駅の丸の内南口で待ち合わせ。
平日とあって、職場へ向かう人々が足早に通り過ぎてゆく。
宮内庁庁舎あたりで2ルートに別れた一方の行列についていく。
やがてそれかなっていう建物が見えてきた。
人垣の隙間からカメラのレンズをのぞかせて、訳も分からず撮ってきた。
以前の大嘗宮は儀式終了後に壊して材料は破棄されていたものを、今回は時節柄、材料は再使用されるらしい。
また、屋根材は茅葺だったが、今回のものは桧皮ぶきだそうだ。
久しぶりにこの辺りを歩いて変化の速さを実感してきた。
昨年の話 習志野の空挺館見学 [建物]
昨年の話 習志野の空挺館見学
その隆盛が近衛兵団の大将として、それ以前から馬の産地としての習志野の地に騎兵団の訓練視察にこの地に来たということをちらっと聞いた。
それで調べているうちに、この空挺館という歴史的建物と一般公開していることを知っていってみたくなった。
それは陸上自衛隊習志野駐屯地の敷地内にあって、公開日以外には入れない。
おいら的には、ちょっと抵抗がないわけではないが、ドキドキしながら門をくぐった。
怖そうな服装だが、意外にも優しく対応していただいた。
建物前にあった説明板は、木板に墨で記されていて、消えかかっているので読みにくかったが、次のように読めた。
空挺館
(旧御馬見所)の由来
この建物は、明治天皇の「御馬見所」として 明治四十四年に東京目黒の騎兵学校内に建てられ明治天皇が修業式に行幸され学生の馬術を天覧された由緒ある建物です。
大正五年 騎兵学校がここ習志野に移転した際 同時に移築され迎賓館として使用されておりました。
昭和三十七年に「空挺館」と命名し 空挺精神の伝統継承の場として旧陸海軍及び自衛隊の空挺資料並びに騎兵資料等の展示館として現在に至っております
空挺館は白い外観を見せて周りとは不釣合いな建物だ。
あまり古い感じがしないのは何度か修復しているらしい。
内部は、空挺団の展示が多く、室内で待機していた元自衛艦の方から展示の説明を受けた。
かつての大戦で落下傘部隊が大いなる戦果をあげたのはおいらも聞いたことがある。
落下傘は技術の進化が目覚ましいようだ。特に軽量化。印象よりかなり思い落下傘を持ち上げるコーナーもあったが、大変なものだった。
2階には、この地が近衛騎馬隊の演習場だった頃の天覧の部屋が一段高く床上げされたところや、司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」の中心人物 秋山好古の肖像画を始め資料などが掲示されていた。日露戦争時に世界的に強いとされていたロシアの騎馬隊コサック兵と対等に好古の率いる騎馬隊の戦闘は圧巻だったのを思い出す。
習志野は昔から馬に縁のある地であった。
旧大沢家住宅 習志野市森林公園 [建物]
前回の旧鴇田家住宅に続いて、同じ習志野市の旧大沢家住宅(千葉県指定有形文化財)にも行って見た。
入り組んだ細い道の奥に、その公園はあった。
旧鴇田家住宅に比べると建屋も小さく、敷地もちょっとした高台にこじんまりと建っていた。
内部は自然光だけでは非常に暗い。
閉館時間間際だったので、訪れてくる人もなく静かなところだ。
それでも桜の季節には高台の下に見る桜のコントラストがなんとも美しいとのことで、訪問する人も多いらしい。
この建物は東日本大地震にも傷一つなく耐えたという。
リーフレットによれば・・・
<昭和50年(1975)12月12日 千葉県指定有形文化財指定
旧大沢家住宅はは、寛文4年(1664)に建築された東日本最古級の古民家です。江戸時代に上総国長柄郡宮成村(現在の千葉県長生郡長生村)の名主をつとめた大沢家の住宅として、昭和48年(1973)まで使用されていました。昭和51年、建築当初の姿に建築復原され、同年11月に開館しました。
この住宅は、江戸時代中期までの典型的な房総民家の形式を今に伝えています。その特徴として、開口部が少なく「デイ(出居)」の戸口が格子窓と壁だけで構成されていること、差鴨居(さしかもい)がすくないこと、大黒柱が使われておらず床の間もないことなどがあげられます。
「ドマ(土間)」では民具を展示し、午前中はカマドで火を焚いております。古民家ならではの落ち着いた雰囲気と趣をお楽しみください。>
実籾本郷公園内 鴇田(ときた)家住宅 [建物]
むかしは、農業を営む家族が多く、大きな茅葺き屋根の旧家もそれほど珍しくもなく見ることができた。
窓が少なく、暗い感じだが自然に寄り添った姿が好きだった。
いま、このような建物を見ることは少なくなり、ましてや家屋内を見るとなると特別な施設に出向かないといけない。
ネット内をぶらぶらしていたら、こんな建屋が公開されていることを知った。
それは、実籾本郷公園(千葉県習志野市)にあった。
近くの街道は何回も行き来したが、公園の存在は知らなかった。
公園に到着すると建物はすぐに見つかった。
ワクワクしてきた。
大きな家だ。
平日の昼ごろであったので、誰もいない中を見て回った。
手入れの行き届いた美しいもので、今すぐにも住めそうなところだ。
この建物はリーフレットによると
平成17年(2005)3月29日千葉県指定有形文化財指定
旧鴇田家住宅は、享保12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成=おなり)街道沿いに建築され。江戸時代に実籾村の名主をつとめた鴇田家の住宅として、平成3年(1991)まで使用されていました。平成12年10月にはほぼ建築当初の姿で移築復原され、同年11月に開館しました。
L字型に曲がった母屋は、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋」であり、東関東ではきわめて珍しい建築様式です。また、この住宅は、身分の高い人が来訪した時に使う「玄関」や、その供の者が待機した「供待ち部屋」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。
「土間」では民具を展示し、午前中はかまどで火を焚いております。
主庭「上宿庭(じょうじゅくてい)」では、水琴窟が奏でる安らぎの音色と、四季を彩るイロハモミジやロウバイ、サンシュユなどの植物をお楽しみいただけます。
公園内には大きな池があって、長いレンズとカメラを持った方がいたので、カワセミですかって聞いた。
そんなんだが、最近は出ていないということだった。
池の中から小さい止まり木が出ていていかにもカワセミが止まりそうだった。
また公園に隣接する田んぼには、ほたる野なるものもあって自然を近い存在として感じられるいいところだった。
色々な季節に再訪したいと思った。