大仏追善供養 船橋不動院

 

 JR総武線の船橋駅から南へ向かって、御成通りを左に少し行ったところの路地を船橋漁港方面へ行くと、右手に人だかりが確認できた。

何度か船橋を散策する折に、この不動院と門前にある飯盛り大仏を見てきたが、大仏追善供養を見にきたのは初めてだったので、人だかりを見て一安心。

 

その小さい大仏の横にある祭りの由来を要約すると、

昭和47年に船橋市の指定文化財に指定された。
対物追善供養の由来は、江戸時代初期から中期にかけては地元船橋が幕府に魚介を献上する「御菜浦」(おさいのうら)とされ、その猟場は非常に良いところだった。
その後の災害(地震と津波)により魚介の献上は中止された。
この豊かな漁場を巡って、近隣の漁師とのトラブルから、この地の漁師総代3名が入牢されることとなり、うち1名は牢死、1名は牢をで手間もなく亡くなったという。

この漁師総代3名と先の津波での溺死者双方を供養することで文政8(1825)年から始まったという。
明治期になってそれまでの毎年1回、1月28日の供養であったが、それ以降2月28日となった、
供養の日には、炊き上げた白米を大仏に盛り上げ、牢内で食が乏しかった苦労を慰めるようになった。


当日は近隣の小学校の児童が、地元の歴史を学ぶきていたことには感心した。
全員が大仏に飯を盛り、またはがし取ってそれぞれ持ち帰り、それを食すことで風邪を引かないよって、年寄りから教えられ、素直に従っていた。
そうやって伝統を理解して引き継いでゆくって見ていてもいいもんだ。

不動院を後にして、脇道を抜けて覚王寺の難陀龍王堂(船橋市指定文化財)を見た。
嘉永3年に再建されたという建物はとても古くて、鉄パイプの柱に屋根を設けて保護していた。

次は以前に参ったことがあった円蔵院の因果地蔵尊。

さらに進んで船橋大神宮と呼ばれる意富比神社。
そういえば前回お参りした時、常磐神社造営工事の案内板があったっけ。見にいてみると真新しく、艶やかな色彩の本殿が佇んでいた。

続いてかつては灯台だったという、灯明台を満足するまで眺めて。。

たくさんのいいところ、伝統を重んじる祭りと春の花などを見ることができ、心が明るくなったような気がしてきた。