自宅から子どもの感覚で遠出したという距離には一面に田んぼがあったが、その中のいくつかは四角い田んぼの中に不自然に丸い池があった(子どもうちでは1トン爆弾池と呼んでいた)。防空壕なんかもあった。繁華街の出来事を除いて、どれも戦争の悲惨さを感じることはなかった。多くは遊び場になっていた。
小学校入学は地元の区立小学校だった。入学式でのことだと記憶であるが、紺色のブレザーと半ズボンで胸には白いハンカチを長方形にたたみ名前を墨書きしたものを胸のポケットに安全ピンで留めた。これが当時の入学スタイルだったのだろうか。
校舎は古びた木造で暗かった。ここが実際に教室に使われたのかは記憶にない。小3になって地区外の小学校に転校した。50人クラスで7組くらいあった。全校で児童数は1200名ほどだと記憶している。この環境しか知らないのでこれが後に私たちが団塊の世代などと呼ばれるとは想像すらしていない。
電車で通学することになったが、他にも同じような多くの小学生を見かけることがあった。少しでも教室に空きのある小学校へ転入することが必要だったと思われる。
電車通学はラッシュの時間帯では大人たちの腹部や胸部がこどもたちの顔に来るので、呼吸することも困難になるほど辛いものだった。
しばらく後に電車の最後尾が新聞、雑誌などを輸送するだけの普通の電車のシートを取り去り、窓に格子をいれた車両が荷物運搬用と小学生の通学専用車両として使用された。シートがないので座ることができないが、暑さと呼吸困難から解放された。(当時はエアコン付き電車はない)