見学参加後にお土産としていただいた絵はがきセットにあった一枚
いまでは動作することない勝鬨橋だが、当初は写真のように開閉式の可動橋で架橋され、
稼働していた時代があった。
その当時の施設の一部が見学コースに組み込まれている



勝鬨橋(かちどきばし)橋脚内見学に行ってきた

   かつて、国際展示場といえば晴海であった時代には、徒歩にしても、バスにしても、都電でも、銀座から晴海通りを勝鬨橋を渡って行くコースが一般的だった。
都電なんか荻窪〜新宿経由で走っていた。

そんなことくらいで勝鬨橋については、たいした知識もないが、いつだったかテレビのニュース番組で見学会があることを知った。

例によっておじさん3人組で出かけるべく、見学会に申し込みを行うことにした。
調べて見ると、「東京都道路整備保全公社」ってところで受け付けていた。

週一回(木曜日のみ)で一日に4回の募集枠があり、往復はがきで申し込みということがわかった。


ある木曜日の昼ころ、おじさん3人組は三越銀座店ライオン口で待ち合わせ。
この場所は渋谷のハチ公前みたいにメジャーな待ち合わせ場所なのか、デパートの入口付近には大勢の人で出入りもままならないくらいの混雑。


しかし、まぁ外国人の多いこと。
それに外国の有名ブランドショップも凄い。
いつごろからか銀座の景色が変わったんだろうか。
時代の変化って目を見張るものがある。
これと対照的に変わらないのが勝鬨橋?こじつけも多少無理があるかな。


せっかくの銀座なんで、いろいろブラブラしながら、晴海通りを築地方面へ

築地市場と隅田川(この川が隅田川だって今回初めて知った)に挟まれた勝鬨橋のたもとに、集合場所の「かちどき橋の資料館」っていうのがある。


見学コースは勝鬨橋の中程にある4つの石組みの建物の2階(橋脚部運転室)とその下の機械室が対象。
機械室に降りるときに、はしごを使うので転落防止のため、全員安全ベルトとヘルメットの着用が条件。



それで「勝鬨橋」について(入手したリーフレットの説明を転載)

勝鬨橋は、昭和15年(1940)に隅田川河口に築造された。わが国で最大規模を誇る可動橋です。
橋の中央部分を「ハ」の字型に開いて、1000トン級の大型船舶を通すことができました。

橋の名の由来
明治38年の日露戦争の勝利を記念して、築地と月島間に設けられた渡し場である「かちどきの渡し」に由来

勝鬨橋の建設目的
月島と筑地との連絡は、佃の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しの3つの渡しによっていました。
勝鬨橋は、こうした月島の交通不便を解消し、当時、埋め立てが進んでいた晴海や豊洲地区の開発支援のため建設された。

船が通れる可動橋にした理由
隅田川河口部は、江戸から明治、大正、昭和初頭頃まで港の働きのある水域でした。河岸には、倉庫や工場が立地しマストなど背の高い貨物船が航行していました。
また、造船所などもあり、大型船も航行していました。
このため、通常は人や車を渡し、一日数回開橋して大きな船を通すことができる可動橋にした。

開閉回数は一日何回
戦前は、一日5回開閉していました。戦後の昭和22年からは一日3回、昭和36年からは一日1回。
可動部は70度まで70秒で開きました。船が見える間、晴海通りは約20分間交通止めになりました。

開閉を中止したのはなぜ?
生活物流などを運搬する交通手段は、昭和30年代に入ると船や鉄道から自動車に転換して行きます。
このため、隅田川を航行する船が減少し、また勝鬨橋が渡している晴海通りの交通混雑が激しくなり、昭和45年11月29日を最後に中止しています。