半世紀以上にもなるあまりに昔のことで、記憶も薄れ、現実と想像との境界も曖昧になってきた。
おいらが、加曽利貝塚に行った折に見かけた土器を作る集団を見かけた時に、心を惹きつけられたのは、この当時の体験が大きな要因になっていると思っているんだろうと疑わない。
小学校の高学年になった頃だろうか、その頃は地元の小学校ではなくて、越境編入して3年生から電車通学していたので、いわゆる地元の幼友達っていうのも少なかったと思う、と言っても下校してからの遊び場は地元の大泉学園(西武池袋線)の周辺になる。
休みの日はちょっと遠出して自転車を駆って白子川。
急な坂を転がり降りると、白子川にかかる橋があって、そこから下流に土手沿いに行くと、右側に東映大泉撮影所が見えてくる。
さらにちょっと行くと丘があって雑木林があった。
この雑木林は豊かな自然の富をおいら達に惜しむことなく与えてくれた。
時には自然の恵みでない畑のサツマイモなどもちょっと失敬して生でかじったりした。
春の記憶はないが、夏はカブトムシ、クワガタ、セミなどを両手て持てないほど採れた。秋は山栗などをとって渋皮をとって生で頬張ったっけ。
冬は、爆弾が落ちたと言われるすり鉢状の南斜面に寝転がると、背中の砂が暖かい、そんな心癒される空間もあった。
こんな「子供の楽園」も幼友達を中心に代々情報伝承されたきたんだろう。
しかし、伝承もおいらの世代を最後に次の世代に伝える必要がなくなった。
宅地開発が入ってたくさんの宅地ができた。