山縣飛行士殉空之地碑 [散歩]
右折してさらに進むと、左折を促す案内板があり、左折すると前方左側に木が茂っているそれらしい一角が見える。
畑の間を抜けて案内板の方向に左折するとすぐに石碑を確認できる。
すぐさま、このところすっかり有名になった「一条縞蚊(ヒトスジシマカ)」がどこからともなく寄ってくる。
石碑には「山縣飛行士殉空之地」裏側には「紀元二千六百年八月二十九日 伊藤音次郎建立」とある。
正面の台座部には、なにやら細かい字が掘られた石版が埋め込まれていますが、
<山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三官民間人今猶ほ惜しまざるはなし建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
昭和十五年八月二十九日 男爵 奈良原三次 >
「元・【東京】江戸御府内八十八カ所順打ち巡礼記【遍路】」より転載
要約すると
伊藤音次郎の一番弟子である山縣豊太郎は、民間初の宙返り飛行を成功させるなど天才飛行士として絶賛されていましたが、連続3回宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落死してしまいます。その死は新聞の号外で報道され、一般の人々にも大変惜しまれました。
墜落場所にその功績を惜しみ山縣飛行士の師匠である伊藤音次郎氏によって石碑が建てられたということになります。
「伊藤音次郎」は、稲毛海岸にあった民間飛行場で活躍し、1915年(大正4年)に「伊藤飛行機研究所:をつくり、その後台暴風雨で壊滅してしまった。
その後、1918年(大正7年)同研究所を鷺沼海岸(習志野市)に移し、飛行機の研究、製作、飛行士の養成に尽力した。
畑に囲まれたなかにぽつんと石碑が建っているだけのものですが、航空機の進歩の中で数多くの犠牲者のひとりとして、航空機の進歩への貢献を讃えるものとしては珍しいものではないだろうか。
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