馬加康胤の首塚 幕張 [散歩]
馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚
JR東日本 総武線「幕張ー幕張本郷」の車窓南側に見える何の特徴もない平凡な風景の中に、お椀を伏せたような形で木々が生い茂る山をいくつか見ることができる。
最初見たときは古墳かなと思った。
それらの山に何回か訪ねたことがあった。
今回も散歩がてらに出かけてみた。
ある「サイト」によると、山の名は「大須賀山(堂の山)」というらしい。
標高はなんと15m(山とは言えないか)
旧街道からは、ちばシーサイドバスのバス停「幕張1丁目」から階段が見える。
右手に見えてくるのが「宮城野馬五郎(荒馬紋蔵)供養塔」です。
かなり荒れていますが、幕張(現)出身の力士であり、寛政5年(1793)に出生、文化8年(1811)に横須賀侯の抱え力士となり、同11年(1814)4月に入幕しました。
天保6年(1835)に42歳で引退し、4代目年寄「宮城野馬五郎」を継ぎ、力士の育成に努めましたとあるが、知っている人は少ないのではないだろうか。
訪れたときは、開封されたビールの缶がひとつ供えられていた。
さらに進むと首塚の看板があり突き当たりを左に折れる。
ここから頂上にうっそうと茂るダブの木々に護られるようにして大きな五輪塔が見えてきます。
これは「馬加康胤の首塚」といわれ、塚上には大きな寛永10年(1633)2月11日建立の「馬加康胤の五輪塔」があります。
土台の方形のものと上部の五輪塔は別のものだという
ほかの所では倒れた石碑などおおいなか立派にたち誇っている
旧街道に面したところにあるこの地を説明した看板があります。
ここに記載されている内容を転載します。
<大須賀山の自然と文化財>
<所在地 千葉市花見川区幕張町一丁目 堂の山
幕張町は、古くは千葉郡大須賀莊須賀原(ちばぐんおおすがのしょうすがはら)あるいは幕張本郷と呼ばれ、江戸時代以降は馬加村(まくはりむら)と呼ばれていた。
この丘の中腹に大日堂があり、元は独立した寺院だったと伝えられ、御堂があることから堂の山(どうのやま)とも呼ばれます。
(自然環境) この丘は標高15メートル程で、南側は埋め立てられるまでは、直接東京湾に面していました。
現在でも自然の海岸林が残り、市内では貴重な自然です。林は海風を受け、タブノキを主にスダジイ、ツバキ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、トベラを混え(まじえ)、西から東へ林相(りんそう)が変化していく様子が見られます。
(文化財) 階段上の右に文政11年(1828)関脇に昇った郷土力士荒馬大五郎(あらうまだいごろう)(年寄宮城野馬五郎)の供養塔があり、左前方が大日堂で、以前大日如来が祀られていたが、宝幢寺(ほうどうじ)に遷(うつ)され千葉市文化財となっています。
またかって御堂では旧暦2月に天道念仏という踊念仏(おどりねんぶつ)が行われていた。
左奥の坂上には馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚と伝えられる方形の塚と、その上にその供養のために建てられたという江戸初期の五輪塔があります。
平成10年3月
千葉市教育委員会>
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こんにちは^^
人の名前から地名が出来ているのかしら。千葉もそうですしね。
by mimimomo (2014-08-30 11:52)