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方向音痴もたまにはいいかも [雑感]





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当たり前からはイノベーションは生まれない
 歩き易い道路を行くうちに二股にさしかかった。一方は、いま来た道の延長で、他方は脇道と言える人の往来もままならぬ道だ。どちらを選ぶべきかは、人生に通じる大きな問題になるだろう。
二股が双方とも同じような道相だった場合の判断はどうなるか。

 人間には方向音痴っていう能力を持った人、そうでない人がいるみたいで、おいら自身がその方向音痴なのか、そうでないのかはテストがあるわけでもないので、正確にはどちらに属するのかはわからない。
いや、この課題を2分することだけでかたづけても良いかという問題もある。
そもそも何故、何もないところで方向が判るんだろうか。

いいよね。
例え選択した道が思った方向と逆方向だったとしても、思わぬ出会いが待っているかも知れない。
判りすぎている面白くない、効率的、理論的なものより光っているものが見えるかもしれない。


 何も目的なく歩いていて、文頭のような二股にさしかかったときは、どちらを選択しますか?

おいらは左側を選んで進むだろう。体内の左側にある心臓を本能的に保護する意識が働くのかもしれない。左に回ることで外側に心臓を位置させないということになる。

また、双方の道の相が異なった場合、おいらは人が通った様子が薄いほうを選択するかもしれない。そちらのほうがわくわくが待っていると思える。もっというと狩猟の場合、すでに人が入り込んだ方は、獲物に出会える確立が少なくなる。

このようなことが、事実かどうかわからないが、自分の意識は自分ではない何者かに支配されている瞬間があるようだ。これが「感」っていうやつかな。
有名な作家などで、よく「アイデアが天から降ってくる」という例えで話す人がいたが、もし神がいるなら、まさに与えられ、意識することなく盲目的に従うということになるのだろうか。


 道の選択で先人の入らない方を選択したら、思わぬ危険やとんでもない判断の強要、苦労が待っている確率は一般的には高くなる。


 現代社会の情報氾濫の中では、敢えてこんなことを選択しなくっても「いいじゃん」って考え方も当然あるだろう。

いろいろな選択や考え方があって、世の中の幅や深さができるのに、これを避けていると縮小していくことが考えられるというのは大袈裟だろうか。

 ときに自分を信じて、本能?あるいは神の声に従うって必要ではないか。
政治や経済でいま、お利口さん志向の、狭い、安易な選択で道を決めている傾向がますます強くなってきたのではないだろうか。

同じ道を歩んでいる中からは真のイノベーションは興らない。




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