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半日 船橋にどっぷり浸かってきた [歴史散歩]





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徳川家康400回忌<今よみがえるその足あと!>
 
 以前、船橋漁港の水神祭でのこと、祭りの後でスズキの唐揚げを食べているとき、チラシを配っている人がいてこのようなチラシを手にした。
風が強いし、寒いしでポケットに仕舞い込んだ。
あとで見返してみると興味深いと思い電話にて申し込んだ。
 
 
 
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 今年は徳川家康が亡くなって400年という切れ目の年だということで、家康に名残のある各地ではいろいろなイベントが計画されていることだろうが、船橋のこの地は先駆けて、このようなイベントを計画したということだ。
 
船橋と家康との関係は「あっと」思い出せる人は少ないと思う。おいらもそのことにピンとこない。
船橋漁民とのつながりや千葉県の東金方面への鷹狩りの道すがらでの宿泊地などと意外に関係しているということを理解できた。
 
市民団体「ふなばし街歩きネットワーク」の主催で、ボランティアの事前準備や知識のお陰で、ひとりでぶらっとしては分からないことや各ポイントのつながり、時間的関係など、また深い知識が入ることでさらに面白くなってきた。
 
このようなイベントはときどき計画されるようだが、船橋住民ではないので、情報入手が困難なのが残念だ。
 
 
 まずは4月18日の10時に京成線の船橋駅に集合して、「船橋御殿跡と東照宮」−>「船橋宿」−>「海老川橋(船橋地名発祥の地)」−>「船橋大神宮=意富比神社(おおひじんじゃ)」−>「船橋漁港(御菜浦)」−>「不動院」
と徒歩で巡り 12:30現地散会
 
 




 

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 船橋御殿跡には実質的になにも残っていないので、この辺りがそうだった
という説明があって、写真のような細い道を経由して東照宮へ移動
 
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 これが東照宮
日本一小さい東照宮で売り込もうとの計画があるらしい
 
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 東照宮前にあった説明板には
 
市指定文化財(史跡)
船橋御殿跡と東照宮
徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や
宿泊所を建てさせた。
慶長十九年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃で
あろうと推定される。
家康は元和元年(1615)十一月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、
秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。
将軍家の東金狩猟が寛永七年(1630)頃に終始した後も船橋御殿は存続していたが、
寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。
船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。
その後、この地は大神宮宮司の富氏(とみし)に与えられ、開墾されて畑地となった。
東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。
 
船橋市教育委員会
 
 
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 東照宮の鳥居前の小さい広場で説明を聞く
 
 
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次の移動先は船橋宿の「森田呉服店」
創業140年だという
 
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 呉服店の前の道路は海老川橋を経由して船橋大神宮に続く
 
 
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次の移動先は海老川に架かる「海老川橋」
欄干の中央に「船橋」の地名となった由来が書かれている
この小さい川はかつては川幅が広く、橋も少なかったという
 
川に小さな舟を数珠つなぎに並べて上に板を渡し、
橋の代わりにしたことから「船橋」という名がついたということだが、実際の場所は
海老川橋よりかなり上流にあったという
 
 
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 次の移動先は船橋大神宮(意富比神社(おおひじんじゃ))
 
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 鳥居を抜けると左手に現れる「船玉神社」社殿は
漁業の町らしく船の舳先の形が観られる
 
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 船橋大神宮 本殿前
 
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常磐神社(摂社)前で
この神社も東照宮とのこと
現在立て替え工事中でH27-10月完成予定とある
 
 
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 次の移動先は 船橋漁港(御菜浦)
 
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 船橋浦は江戸時代に将軍家に魚介類を納める御菜浦であったため、船橋の漁師は魚介を納めるかわりに、
広大な漁場を占有することを許されていました
 
 
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 次の移動先は 不動院

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 飯盛り大仏
船橋の海は、江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する「御菜浦(おさいうら)」と
された好漁場でした。
元禄16(1703)年の大地震による海底地形の変化などで、翌年から魚介の献上は中止され、
代金納になりました。
その後この漁場を巡って、近隣(堀江・猫実・谷津・鷺沼など)の漁師たちと多くの争いが起こりました。
 
文政7(1824)年、船橋村と猫実村(現在の浦安市)との漁場の境界を巡る争いが続いた時。
船橋漁師の占有漁場に他村漁師の船が進入してきました。
その中に、一橋家の幟(のぼり)を立てた船があり、乗っていた侍を船橋の漁師が殴打し、
幟を奪ってしまいました。
大きな事件であったことから、船橋の漁師総代3名が入牢させられました。
1名は牢死し、1名は牢を出て間もなく死亡しました。
そのため、延享3(1746)年の津波による溺死者と、漁場を守り死んでいった漁師総代の供養をあわせて
行うようになったのです。
大仏追善供養は事件の翌年の文政8(1825)年以来、毎年1月28日(明治以降は2月28日)に
行われるようになりました。
本来この大仏は、津波によって溺死した漁師や住民の供養のため、延享3年に建立された
石造釈迦如来坐像です。
供養の日には、炊きあげた白米の飯を大仏に盛り上げるようにつけます。
これは牢内で食が乏しかった苦労をなぐさめるためといわれています。
大仏の西側には漁師総代2名の供養碑が建てられています。
 
船橋市教育委員会
 
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 不動院 墓地には
郷土の力士「荒馬吉五郎」の墓もある
 
 
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 解散後 駅に戻る途中 船橋では有名らしい
「ソースラーメン+ハムカツ」
 
最初から最後まで「船橋」どっぷりの散策でした。
「ふなばし街歩きネットワーク」の皆様方 本当にありがとうございました。
 



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コメント 4

昆野誠吾

創業140年の呉服店、覗いてみたいです^^
で、ソースラーメン!?
これはまた面白い食べ物があったものです。
是非とも食べてみたいリストに追加!(笑
by 昆野誠吾 (2015-04-21 18:39) 

mimimomo

おはようございます^^
いい経験ですね~ 歴史のあるところを歩くのは、ただ歩くより
歩き甲斐がありそう^^
by mimimomo (2015-04-22 06:52) 

DANKAI_Gen

昆野誠吾さま
いつもありがとうございます。
この通りに面した古い造りの商家は他にもいくつかあります。雰囲気いいですよ。
ちょっと引けてしまいそうなネーミング。でも意外性から注目してしまう。そんなことで食べました。ソース味でした。有名なラーメンも含めあまり食べたことないので、美味いかと言われても答えられません。
by DANKAI_Gen (2015-04-22 11:24) 

DANKAI_Gen

mimimomoさま
いつもありがとうございます。
主催者で説明してくださった方が、家康が通った場所にいるという説明を受けると、歴史って凄いことだと変に感心してしまいました。
by DANKAI_Gen (2015-04-22 11:27) 

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