上総国分尼寺(法花寺)跡とその周辺に出かけて見た [歴史散歩]
上総国分尼寺(法花寺)跡とその周辺に出かけて見た
以前に行ったことがあったが、春の陽気に誘われてもう一度じっくりと見たくて出かけてみた。
千葉県市原市国分寺台中央3-5-2 にある「史跡 上総国分尼寺跡展示館」と、上総国分尼寺(法花寺)の史跡の一部と当時の建造物の一部「中門」「回廊」などを復元したものだ。
当時と同じ位置に同じような工法をもって復元された中門と回廊は素晴らしいが金堂が復元予定も含めてないのがちょっと残念だ。
市原市市役所を挟んで反対側に「上総国分僧寺跡」も含めて2箇所を見て回った。
●ここから史跡 上総国分尼寺跡
史跡 上総国分僧寺跡の北東約700mにあり、僧寺と一体化して機能を果たした。
いまから1250年ほど前に建立された寺院です。寺域は約12.3万平米におよび全国につくられた尼寺跡の中でも最大規模を誇ります。
金堂・中門・回廊・講堂・鐘楼・経楼・尼坊・東西門などの中心伽藍のほかに、寺を運営するうえで必要な大衆院・修理院・賤院などの施設が発掘調査によって確認され、全国に先駆けて全容が明らかになりました。
中門・回廊などの建物は当時の工法によって復元されており、往事の姿を偲ばせます。
(市原市教育委員会著 「歴史の旅人」から)
「史跡 上総国分尼寺跡展示館」全景 背後が史跡敷地
施設内にあった説明板
よみがえる史跡 天平の華
史跡 上総国分尼寺跡(しせき かずさこくぶんにじあと)
国指定史跡上総国分尼寺跡は、市原市が奈良・平安時代に上総国の政治・文化の中心であった
ことを象徴する歴史的文化財です。
市原市では、この貴重な史跡を保存し、次世代に継承していくとともに、市民の郷土史学習や
憩いの場として活用するために、平成2年度に環境整備基本計画を策定しました。
今回の計画の特徴は、野外の史跡での、歴史的建造物の復元とガイダンス施設である展示館の
一体的な整備です。
計画に基づき、平成2年度に展示館を、平成3・4年度に復元中門を建設しました。
平成5年度からは回廊復元工事に着手し、平成9年3月には金堂基壇を含めた金堂院の一郭が
よみがえりました。
今後も、鐘楼などの建造物の復元や、東門・西門・経楼(きょうどう)・講堂・軒廊(こんろう)・
尼坊(にぼう)・政所院(まんどころいん)などの基壇表示や修景等の平面整備を進め、
天平の史跡を現代によみがえらせていく予定です。
市原市教育委員会
以上説明板を転載
敷地内の通路の脇にあった「タンポポ」「ツクシ」「オオイヌノフグリ」
春の3点セット
風はまだ冷たかったけど春ですね
回廊と中門
中門正面
瓦積みの上に同じ材質の正方形の甎(せん)が敷き詰められている
瓦の文様は奈良の法隆寺のそれと同じ文様だという
復元瓦は奈良で焼かれたものだという
金堂があるべき場所から八角燈籠を挟んで中門を見る
金堂があるべき場所から回廊を見る
中門右側の向こう側見えるのが市役所
「史跡 上総国分尼寺跡展示館」内のジオラマ
窓の向こう側には復元された回廊などが見えて対比できる仕掛け
●ここから「上総国分僧寺跡」
国分寺は天平13年(741)に聖武天皇の詔によって全国60余国に建立された国立寺院で、各地方における仏教や文化の中心となりました。
上総国分寺の寺域はおよそ13.9万平米におよび、全国でも最大級の規模を誇ります。
飛鳥の大官大寺式伽藍配置をもち、発掘作業では、金堂・講堂・塔・中門・南大門・西門・回廊が検出されています。
付近には瓦窯跡や寺を運営するための付属施設などが多数確認されているほか、七重塔の基壇と大きな心礎石が見られます。
なお、現在は医王山清浄院国分寺が法燈を伝えています。
(市原市教育委員会著 「歴史の旅人」から)
西門跡 平面復元と説明がある
礎石もないようだし、柱はコンクリート製?みたいで、リアリティーがない
将門塔(宝筐印塔)
菊間新皇塚古墳の墳丘に存在し、「将門の墓」として伝承されてきた。
しかし塔身には応安第五壬子十二月三日の銘が刻まれ、将門の命日、天慶三年二月十四日と
違う。塔の形式の南北朝時代と考えられることから、将門との結びつく点はない。
(説明板の一部を転載)
市原市指定文化財
木造金剛力士像(阿形)附(つけたり)木造金剛力士像(吽形)
指定 平成18年8月
所在地 市原市惣社
金剛力士像は仏法の守護神として、阿吽一対の二像が寺の門や修弥壇(しゅみだん)に安置され、
二王(仁王)とも呼ばれていました。
本像は、西面して建つ国分寺仁王門の左右に安置されている一対の金剛力士像です。
市内に現存する中世の金剛力士像は、皆吉(みなよし)にある橘禅寺(きつぜんじ)の木造金剛力士像
(千葉県指定文化財)と当阿形像のみです。・・・・
(説明板より転載)
市原市指定文化財
国分寺薬師堂 附(つけたり) 厨子
昭和62年3月
国分寺薬師堂は、桁行三間・梁間三間のいわゆる三間堂といわれる形式で、正面に一間の向拝(ごはい)
(庇 ひさし)が設けられています。
また、周囲には高欄を付ける切目緣(きりめえん)がめぐります。
屋根には、茅葺の入母屋造りで、建物内部には、内陣天井に植物文様の絵、外陣に竜及び飛天が
描かれています。・・・・享保元年(1716)に完成したことが分かりました。
(説明板より転載)
七重塔 心礎
直径1.8m 厚さ0.7m 截頭円錐形(さいとうえんすいけい)
上総国分寺七重塔は高さ63m以上で、奈良法隆寺の五重塔の2倍ほどの高さだったと言われている
七重塔復元模型は市原市役所の1階ロビーに展示されているようです(1/20サイズ)
敷地内で静かに花咲いていた椿
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タグ:歴史散歩
こんにちは^^
随分立派なものが復元されたのですね。
by mimimomo (2015-04-01 11:30)
mimimomoさま
いつもありがとうございます。
係の人から復元費の話も聞きましたが、忘れてしまいました。予算化された時代は、まだ日本が元気なときらしく素直に納得してしまいました。建築材や加工方法なども含め極力当時を再現することに注力したようです。
by DANKAI_Gen (2015-04-01 14:28)
なかなか壮大な計画ですね。存在自体知りませんでした。
この手の“頓挫した計画”は他にもありそうですが、
危険がなければ、せめて開放して見せて欲しいですね〜♪ (๑◔‿◔๑)
by desidesi (2015-04-05 11:25)
復元するって大変だよね。
by Aちゃん (2015-04-05 11:47)
desidesiさま
いつもありがとうございます。
発掘や復元工事などの写真は展示館に掲示してありましたが、おっしゃるとおり、そういう現場を見てみたいものですね。
by DANKAI_Gen (2015-04-05 15:45)
Aちゃんさま
最近の傾向はぶち壊すのは簡単にきれいに、速くこなすのはできても、当時の技法を用いて、場合によっては工具なども復元させて、忠実に復元するのは容易ではなかった想像できます。
by DANKAI_Gen (2015-04-05 15:48)